White Surf style 5.

 昨年末から、母校がある西東京の街に住むことになった。仙台に六年、尼崎に二年、合わせて八年間も地方都市で暮らしてきた僕にとって、この街は再スタートの地にぴったしだと思った。東京で新しく生活を始めるにしても、港区や品川区から始めるのはどこかしっくり来ない。横浜線とか南武線沿いのいなたい街の方が、住みやすいと思った。

 八年ぶりに最寄りの駅に降り立つと、街の顔が少しばかり変わっていることに気づいた。駅前に二件あったパチンコ屋のうち、一件が潰れていた。もう一件は生き残ってはいたが、大きく外観が変わっており、パの文字の電気が消えたまま放置されていた「チンコ」ネオンが撤去されていた。「チンコ」のおひざ元で目当ての台を求めて、朝から列をなして並んでいた中高年たちはリニューアルされた店にも並んでいるのだろうか。

 僕が通っていた高校は最寄りの駅が二つある。僕が利用していた駅(Y駅と呼ぶ)の正面に伸びる通りを一キロほど北上すると母校が左手に現れ、さらに一キロほど進むと、もう一方の駅(K駅と呼ぶ)にたどり着く。このY駅とK駅をつなぐ通り沿いに桜並木が続いており、都内でも桜の名所として知られている。

 引っ越してから三カ月が経った四月のある日のこと、花見がてらに高校の友人が遊びに来た。僕たちはY駅からスタートして、途中でビールを飲んだりしながら、K駅に向かってぶらぶらすることにした。 

 少し散りかけの桜を横目に高校の通学路を歩いていると、誰からともなしに昔の話になった。桜並木通りでウンコを漏らした同級生や小洒落たカフェチェーン店になってしまったデニーズの話に花が咲く中で、ふと友人が呟いた。

「そういやこの通りのベンチにホームレスの婆さんが居たよね」

 「ああ、居たわ。懐かしい。そういえばこちらに引っ越してから見ないな」と僕は答えた。

 結局引っ越してから七ヶ月経った今も見かけることはない。Twitterで検索してみたところ、2019年頃まで目撃情報があったが、それ以降はパタリと話に上がらなくなっていた。街から姿を消したのは「チンコ」ネオンだけではなかった。

 中に住む人と同じように、街は確かに生きている。仙台に住んでいた時にお気に入りだった新潟料理屋は最近潰れてしまったようだ。今この瞬間も当時住んでいた街は変わり続けている。

 一方で自分が暮らしていた瞬間が街に取り残されていると感じることもある。今年に入って『偶然と想像』というオムニバス形式の映画を見た。その内の一つのエピソードで、仙台の定禅寺通りが映し出されたのだが、この世の全てを恨めしく思いながら、下を向いて歩く自分の生き霊を見つけた。

 K駅前に到着し、風に揺られて桜が波打っている様子を見て、うねる白波のようだなと思った。同時に、高校の部活帰りに学校から帰る途中に桜を見て、同じように白波のようだと思った記憶が蘇った。春に誘い出されて、ふらふらと沖まで漂流している僕たちは「やあ、久しぶりだね、またここまで流されてきたのかい?」と呆れ顔で向かいれられた気がした。

 

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名付けること。

 休日に会社に出た日のこと。昼休憩のタイミングで、近所の天ぷら屋に足を運んだ。そのお店は大型ショッピングセンター内にあり、カウンターのみの簡易な作りだが、味が確かなため評判のお店だった。この街で暮らして一年と半年、いつかは行ってみたいと思っていたのだが、中々機会がなく、結局引越し直前のタイミングで訪れることになった。

 お店に入ると、いかにも和食料理人という面構えの親父さんがカウンターに立っていた。僕はメニューを慎重に吟味した後、野菜鶏天定食を頼んだ。

 和食料理人は低い声で「はい」と言った後、定食のサービスとして、マカロニサラダを好きなだけ食べられることを伝えてきた。天ぷらが美味いだけでなく、なんて素敵なサービスを提供するのだろう。私はすぐにこのお店が好きになった。

 マカロニサラダという料理に「マカロニサラダ」と名付ける行為は、他人の人生を引っ掻き回すことのない範囲で、最も業の深い行いである。元来、マカロニサラダは、炭水化物にこれでもかというほどマヨネーズをあえこんだ、ハイカロリーな食べ物である。しかしサラダにカテゴライズされたことで、あたかもビタミンを豊富に含んだ健康食のような気がしてくる。僕達は常にマカロニサラダから安心感を得ているのだ。鶏天なんてヘヴィーなもの食べてしまったけど、マカロニサラダでしっかりと野菜を取ることができたと。サラダという単語によって、キュウリのなけなしの栄養価に、絶対的信頼を置くのである。

 一説によると、マカロニサラダ命名者 マカロニー伯爵は、マカロニサラダ命名以後、罪悪感から常に背中がギシギシと痛み、何かに取り憑かれたように後世を過ごしたと聞く。

 マカロニサラダの他に、名前によって実態と異なる印象を植え付けられたものとして、iPhoneをあげることができる。ご存知の通り、iPhoneは多数の機能を有しており、価格的にもコンピュータに近い。小型コンピュータにカテゴライズされてもおかしくない代物だ。しかし、iPhoneと名付けられ、携帯にカテゴライズされることで、ユーザはコンピュータに比べ、気軽に手に取ることができるようになった。これにより、iPhoneが幅広く普及したのではないかという説を聞いた。

 名前をつけるという行為は、とても罪深い創造的行為である。名前がつけられたものは、名前を捨てない限り、常に名に与えられた力を背負い続ける。

 僕は一昨年我が家に来た猫に、好きなシンガーから名前をいただいて「源」という名前をつけた。来た時と比べて随分と立派になった彼は、源以外の何者でもない顔つきをしている。彼は幸か不幸か、源以外の何者でもない源として生きているのである。

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 名前を冠する行為は最も原始的な力の譲渡である。モニモニしたマカロニの狭間にある、キュウリの存在をいつもより強く感じながら、小鉢のサラダをたいらげた。