Fernweh憑き

 僕は約10年前にFernwehに取り憑かれてから今までの間、常にFernwehの虜だった。自分の中にFernwehが入り込んだのは、部活を引退したてだった高校3年生の春頃、地理の授業の時だ。日当たりの良い教室に移動して、昼休み直後の時間に受講していた記憶がある。その授業では穴埋め形式で作られたプリントが配られ、「チリセン」というあだ名の教師が書く板書をもとに、空欄に単語を埋めていくという流れで進められていた。高校3年生になると、授業はセンター試験に向けた内容になり、周りの学生も真剣に受講していた。一方で僕は地理どころか殆どの科目を真剣に学んでこなかったので、今更腰を据えて取り組んだところで来年の受験には間に合わないだろうとたかを括っていた。そのため授業中は春の陽気に包まれながら、ただ窓の外の景色をぼうっと眺めたり、『HUNTER×HUNTER』の旅団メンバーを落書きしたりして過ごしていた。

 しかし授業はそんな不真面目な生徒を置いて次の単元へと進んでいく。気が付いた時には授業の内容がまったくわからなくなっていた。クラスメイトが自分の定めた進路に向けて建設的な態度で授業に臨んでいる姿を見ていると、自分は学生から学をとった、ただの「生」としてここにいるなと思った。そんな折に地理の知識の代わりに、ふらりと脳に入り込んできたのが、かの有名なFernwehである。

 Fernweh憑きになると少々やっかいなことがある。むしろ殆どの場合、Fernweh憑きはやっかいである。例えば煙を肺に入れて吸わないくせに煙草を吸って黄昏たくなり、ライト級の喫煙者になる。他にも一所で仕事をして生活を営んでいてもここは自分の仮住まいに過ぎないのかもしれないと思えてくる、無性に海を見に行きたくなる、海を見て泣きたくなるなどの副次的な症状も多数見られるようになる。新たな症例が見つかった場合はお気軽にFernweh研究委員会に一報入れてほしい。

 そしてFernweh憑きが人生でぶち当たる壁は今ここで生きていくという至上命題をどう受け入れるのかではないかと思う。なぜなら『タイタンの妖女』のウィンストン・ナイルス・ラムフォードと彼の愛犬のように「時間等曲率漏斗」(クロノ・シンクラスティック・インファンディブラム)に飛び込まない限り、人間誰しも単一点の個人(今ここにある個人)として生きていかなければならないからだ。

 Fernwehの語源を調べる中で知ったのだが、Fernwehの対義語はHeimweh(ホームシック)という言葉らしい。逃避したいと思い巡らす方向が逆方向であるのは確かだが、今ここで生きていくということに対する逃避という点では同じ思いが根源にあるのではないかと思う。では対義語はどう表現するべきなのか。Fernweh、またはHeimwehの対義語の穴埋めが未だ空欄のまま、授業は次の単元へと進む。

 

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