名付けること。

 休日に会社に出た日のこと。昼休憩のタイミングで、近所の天ぷら屋に足を運んだ。そのお店は大型ショッピングセンター内にあり、カウンターのみの簡易な作りだが、味が確かなため評判のお店だった。この街で暮らして一年と半年、いつかは行ってみたいと思っていたのだが、中々機会がなく、結局引越し直前のタイミングで訪れることになった。

 お店に入ると、いかにも和食料理人という面構えの親父さんがカウンターに立っていた。僕はメニューを慎重に吟味した後、野菜鶏天定食を頼んだ。

 和食料理人は低い声で「はい」と言った後、定食のサービスとして、マカロニサラダを好きなだけ食べられることを伝えてきた。天ぷらが美味いだけでなく、なんて素敵なサービスを提供するのだろう。私はすぐにこのお店が好きになった。

 マカロニサラダという料理に「マカロニサラダ」と名付ける行為は、他人の人生を引っ掻き回すことのない範囲で、最も業の深い行いである。元来、マカロニサラダは、炭水化物にこれでもかというほどマヨネーズをあえこんだ、ハイカロリーな食べ物である。しかしサラダにカテゴライズされたことで、あたかもビタミンを豊富に含んだ健康食のような気がしてくる。僕達は常にマカロニサラダから安心感を得ているのだ。鶏天なんてヘヴィーなもの食べてしまったけど、マカロニサラダでしっかりと野菜を取ることができたと。サラダという単語によって、キュウリのなけなしの栄養価に、絶対的信頼を置くのである。

 一説によると、マカロニサラダ命名者 マカロニー伯爵は、マカロニサラダ命名以後、罪悪感から常に背中がギシギシと痛み、何かに取り憑かれたように後世を過ごしたと聞く。

 マカロニサラダの他に、名前によって実態と異なる印象を植え付けられたものとして、iPhoneをあげることができる。ご存知の通り、iPhoneは多数の機能を有しており、価格的にもコンピュータに近い。小型コンピュータにカテゴライズされてもおかしくない代物だ。しかし、iPhoneと名付けられ、携帯にカテゴライズされることで、ユーザはコンピュータに比べ、気軽に手に取ることができるようになった。これにより、iPhoneが幅広く普及したのではないかという説を聞いた。

 名前をつけるという行為は、とても罪深い創造的行為である。名前がつけられたものは、名前を捨てない限り、常に名に与えられた力を背負い続ける。

 僕は一昨年我が家に来た猫に、好きなシンガーから名前をいただいて「源」という名前をつけた。来た時と比べて随分と立派になった彼は、源以外の何者でもない顔つきをしている。彼は幸か不幸か、源以外の何者でもない源として生きているのである。

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 名前を冠する行為は最も原始的な力の譲渡である。モニモニしたマカロニの狭間にある、キュウリの存在をいつもより強く感じながら、小鉢のサラダをたいらげた。