友達のはなし

 

二年前の夏の終わりに、友人の訃報が届いた。 

短期バイトで知り合った仲間と飲んでいて、何気なく手元のスマートフォンを覗き込んだ時に、母からのメールで知らされた。

一旦席を外して、母に電話すると、改めて彼の死と葬儀の日取りを伝えられた。急なことだったので、なんだか理解することができていない自分が半分、そして意外と冷静に事実を受けている自分が半分だった。

しかし席に戻り、仕切り直して酒を飲んでいるうちに、彼の死を実感していないのにも関わらず、僕は泣きだしてしまった。

悲しみのあまりというより、まるで生理現象であるかのような、反射的な爆発だった。

 

 

 

僕と彼とはまぎれもなく友人だったが(少なくとも僕はそのつもりだ)、正直にいうと10年ほど殆ど会っていなかったし、親しくしていた期間は3年にも及ばない。

最後に会ったのは、訃報が届いた2年ほど前で、それもたまたま成人式で顔を合わせただけだった。久しぶりにあった彼は髪を金色に染めていたが、正直あまり似合っていなかった。一言、二言だけ喋って、その場を別れた。

 

 

彼とは小学校高学年の時に知り合った。そしていつのまにか彼や僕を含めた数人で毎日一緒に下校するようになった。(3年前に書いたこの記事のチャンバラの件は彼を含めた数人の友達との話だ。)

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放課後にはよく彼の家に遊びに行った。彼の家は学校からかなり離れたところにある団地だった。彼には年の離れた兄がいて、漫画やゲームがたくさんあって、かなり魅力的な遊び場だった。僕たちはスターウォーズのゲームをしたり、団地の中で鬼ごっこやかくれんぼをして遊んだ。

 

彼は兄の影響で、当時小学生だったのにも関わらず音楽に傾倒していて、中でも彼のお気に入りはBUMP OF CHICKENだった。

そして僕も彼に『ランプ』や『ナイフ』を聴かされているうちにバンドに興味をもつようになった。

今思えば、彼も兄から影響を受けていたに過ぎないのだが、周りのクラスメイトがORANGE RANGE大塚愛の話題で盛り上がる中、彼の聴いている音楽はそれらと一線を画しているような気がして、憧れがあった。

 

僕は小学校高学年の一時期いじめられていて、毎日イザコザしていたので、小学校や地元にはあまり良い思い出がなかったが、彼との思い出は今でも笑えるものがある。

 

小学生を卒業すると、僕は都内の私立中学に進学し、彼は地元の公立中学に進んだ。毎日会うことがなくなり、彼の家で遊ぶ文化も無くなった。それでもたまに地元の祭りなどで顔を合わして、自分のやっているバンドの話や最近聴いている音楽の話をしていた。中学に入ると、彼はディープ・パープルなどのハードロックを聴くようになっていて、一方で僕は90年代の邦楽ロックを好んで聴くようになっていた。そのころ確かBUMPは長い間活動を休止していたいたような気がする。

 

そして高校を卒業する頃には、僕は彼と会うこともなくなったし、BUMPは活動を再開して、新曲を出したがあまり好みではなかったので聴かなくなった。たまに昔の曲を聴いたりして彼を思い出すだけだった。

 

 

気恥ずかしさを押し殺して言うならば、僕が音楽を聴いたり、ギターを弾くようになったきっかけは、“たまたま”彼のウォークマンで聞いたBUMPだったのだと思う。

誰しもに大人になっていく過程で通過するであろう各々の扉があって、僕の場合は10代の始まりに偶然彼とその扉の前まで一緒にブラブラと歩いたのだ。

 

 

彼の死後に知ったのだが、彼は地元の大学で物理学を専攻し、相変わらずバンドをやっていたそうだ。そして僕も一年遅れたものの仙台の大学の物理学科に進学し、バンドを組んだ。

偶然の一致だが、なんだか照れ臭いし、少し嬉しい。

互いに連絡先は知っていたので、会おうと思えば会えたし、会ったら会ったで色んな話ができたような気がするが、そうはならなかった。

 

帰省して彼の葬儀に出ると、小学校時代の見知った顔の他に、中学、高校、大学と彼と時を共にしたであろう人々が多く来ていた。彼は気さくだったし、ユーモアがあったので、多くの人に親しまれていたのだろう。

参列後、葬儀場の二階で当時の友人と会食していたのだが、その一角に彼の思い出の品が並べられていた。彼の中学、高校、大学時代の写真が詰まったアルバムやディープ・パープルのCDや原子核物理の教科書が並べられていたのだが、その中にBUMPの『FLAME VEIN +1』があった。

 僕の知る彼が確かにいた。