大人になるとは 2

 先日、実験を終えた後、家にまっすぐ帰る気分ではなかったので、映画を観に行った。運が良かったのか、前々から見たいと思っていた映画がちょうど良い時間にやっていた。
『How to Talk to Girls at Parties』(邦題:『パーティで女の子に話しかけるには』)

 1970代、パンク全盛のロンドンが舞台の映画である。ダムドの"New Rose”とともに疾走感のあるカメラワークで物語が幕を開け、オープニングからワクワクさせられた。そう、僕達はダムドの音楽でいつだって心踊らされてきた。 
 先ほどのイメージやタイトルから、察しがつくと思うのだが、この映画は男女の恋愛を主軸において描かれている。物語の中盤で、主人公である内気なパンク少年エンと美しき宇宙人ザン(エル・ファニング)がロンドンの街をデートするシーンがあり、スクリーン全体が多幸感に満たされていて、見ている最中に思わずため息をついてしまった。

(僕が一番好きだった2人で仲良くトマトを頬張るシーン)

 一方でこのシーンの直後から物語が大きく展開し、安いミュージックビデオにも見えるシーンや突飛な描写も多々現れるので、好き嫌いがはっきり分かれそうではある。現に辛辣な批評もいくつか目にした。しかし、ヘンテコなところが沢山あるのにも関わらず、私が惹きつけられたのは、映画のストーリーの構造が素晴らしかったからだと思う。
 この映画では、規律に閉塞感を感じていたヒロインが、規律から開放される短い期間を得て、自由気ままに過ごす。しかし、ある転換点を迎え、ヒロインは“子供”から“大人”へと成長するというストーリーが展開される。よく似た構成の映画として『ローマの休日』があげられる。『ローマの休日』ではオードリー・ヘップバーン演じるアン王女が数日の逃避行を経て、“子供”から“大人”へと成長する。今作でもザンは自由気ままな逃避行の末、転機を迎え、“大人”へと成長していく。

 以前博識な友人から聞いた話なのだが、アメリカ合衆国アーミッシュ(アーミッシュ - Wikipedia)と呼ばれる人々も似たような体験をするそうだ。厳しい規律を持ち、現代文明と一定の距離を置いて生活を営む彼らだが、16歳になるとラムスプリンガと呼ばれる解放の時を迎える。

ラムスプリンガでは、アーミッシュの掟から完全に解放され、時間制限もない。子供達はその間に酒・タバコ・ドラッグなどを含む、多くの快楽を経験する。そして、18歳成人になる(ラムスプリンガを終える)際に、アーミッシュのコミュニティに戻るか、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを選択することになる。皆俗世の生活を選ぶと思いきや、ほとんどのアーミッシュの新成人はアーミッシュであり続けることを選択するといわれる。

 今日の日本において、若者はこうしたイニシエーションの機会がないまま、社会に稚魚のように放流されてしまうイメージを抱いている。だからこそ、今回見た映画のように“子供”から“大人”になるストーリーが余計心に響いたのだと思う。

 『How to Talk to Girls at Parties』に話を戻すと、このようなイニシエーションの末にヒロインの下した決断が、恋愛と絡められて切ないものになっていた。
(主人公エンにとってもイニシエーションだったとは思うのだが…)

 ここまで読むととても真面目で切ない映画に思えてくるが、基本的にはドイヒーで奇天烈でキュートな映画である。劇中でかかる音楽は、一度でもパンクに魅了されたことのある者にとっては心が踊るものだ。また、これは繰り返すことになるが、とにかくデートのシーンは最高である。

ニコール・キッドマンも魅力的だ)


 そんなパンク版 ローマの休日 暇があったら見にゆくことをお勧めする。

東京で踊る

 僕は、生まれ育った街に帰ってきている。 この記事を書いている2日前から、東京のとある大学の研究所で、微生物の取り扱いを学ぶために長期出張をしているのだ。
 僕は物理学専攻ながら、生物を取り扱う研究室に配属している。研究で扱っているのは分裂酵母、つまりイースト菌だ。イースト菌とは、パンを作る時に大活躍するあいつのことである。
 僕は大学生活を通して、常に模範的な物理学生であった。自分のもと降ってくる数多の合コンの誘いをなぎ倒し、巷に溢れる痴女の誘惑を振り払い、一心不乱にシュレディンガー方程式やら鏡像法など物理学の深淵に足を踏み入れてきた。そんな物理に囲まれて暮らしてきたマスターオブ物理の僕からすると、微生物の培養などもってのほか、生物も化学もさっぱりだった。そのため生物実験を始めてみると、立派な装置の前であたふたすることしかできず、研究所滞在初日から知識不足を遺憾なく発揮してしまった。
 また、滞在した研究所には、留学生や研究員の方が多く在籍していた。今日までソウルトークで誤魔化し、ひた隠しにしていた英語力の貧しさも白日の下に晒され、まさに文字通り丸裸、すっぽんぽんの僕が露わになってしまった。もはや裸踊りをするしか選択肢がない。
 そんなこんなで、酵母と格闘する日々を過ごしていると、このままイーストの研究をしていて、何になるのであろうか?と疑念が頭に浮かんでくる。研究室配属の時、「僕は決して優秀ではないが、新たな分野に突入していくバイタリティとアクロバティックさだけは持っている!突き進め!」と意気揚々と量子力学と永遠の別れを告げた。しかし、最近は「颯爽と生物畑に飛び込んだ自分は愚かなことをしてしまったのではないか?」と猜疑心がふつふつと湧き上がってくるのだ。
 今のところは、イーストの研究を基にベンチャー・パン・ビジネスを立ち上げ、荒稼ぎし、億万長者になる将来を夢想することで、なんとか猜疑心を押さえつけている。一体いつまで持つだろうか。
 この東京での滞在期間は、もう1人の自分との対話の時間となりそうだ。
 
 しかし、朝起きて、母親の作ってくれた朝食にありつき、PUNPEEの新譜を聴きながら満員電車に揺られる。研究所では、ひとしきり研究に励んだ後、疲れ切ったサラリーマンに囲まれ電車に乗って自宅に帰る。そんな日々を送っていると、三年前の大学合格発表の瞬間、そして一カ月前の大学院進学通知書を記載した瞬間に分岐して、パラレルになってしまった僕の東京ストーリーに迷い込んだかのような気分になる。一抹の喜びと切なさを感じる。