東京で踊る

 僕は、生まれ育った街に帰ってきている。 この記事を書いている2日前から、東京のとある大学の研究所で、微生物の取り扱いを学ぶために長期出張をしているのだ。
 僕は物理学専攻ながら、生物を取り扱う研究室に配属している。研究で扱っているのは分裂酵母、つまりイースト菌だ。イースト菌とは、パンを作る時に大活躍するあいつのことである。
 僕は大学生活を通して、常に模範的な物理学生であった。自分のもと降ってくる数多の合コンの誘いをなぎ倒し、巷に溢れる痴女の誘惑を振り払い、一心不乱にシュレディンガー方程式やら鏡像法など物理学の深淵に足を踏み入れてきた。そんな物理に囲まれて暮らしてきたマスターオブ物理の僕からすると、微生物の培養などもってのほか、生物も化学もさっぱりだった。そのため生物実験を始めてみると、立派な装置の前であたふたすることしかできず、研究所滞在初日から知識不足を遺憾なく発揮してしまった。
 また、滞在した研究所には、留学生や研究員の方が多く在籍していた。今日までソウルトークで誤魔化し、ひた隠しにしていた英語力の貧しさも白日の下に晒され、まさに文字通り丸裸、すっぽんぽんの僕が露わになってしまった。もはや裸踊りをするしか選択肢がない。
 そんなこんなで、酵母と格闘する日々を過ごしていると、このままイーストの研究をしていて、何になるのであろうか?と疑念が頭に浮かんでくる。研究室配属の時、「僕は決して優秀ではないが、新たな分野に突入していくバイタリティとアクロバティックさだけは持っている!突き進め!」と意気揚々と量子力学と永遠の別れを告げた。しかし、最近は「颯爽と生物畑に飛び込んだ自分は愚かなことをしてしまったのではないか?」と猜疑心がふつふつと湧き上がってくるのだ。
 今のところは、イーストの研究を基にベンチャー・パン・ビジネスを立ち上げ、荒稼ぎし、億万長者になる将来を夢想することで、なんとか猜疑心を押さえつけている。一体いつまで持つだろうか。
 この東京での滞在期間は、もう1人の自分との対話の時間となりそうだ。
 
 しかし、朝起きて、母親の作ってくれた朝食にありつき、PUNPEEの新譜を聴きながら満員電車に揺られる。研究所では、ひとしきり研究に励んだ後、疲れ切ったサラリーマンに囲まれ電車に乗って自宅に帰る。そんな日々を送っていると、三年前の大学合格発表の瞬間、そして一カ月前の大学院進学通知書を記載した瞬間に分岐して、パラレルになってしまった僕の東京ストーリーに迷い込んだかのような気分になる。一抹の喜びと切なさを感じる。


(2016/11/16)

  森見登美彦の『夜行』という本を読んだ。
ひたすらに艶かしい気分になった。しかしここではこれ以上、内容については触れまい。今日ここで語らうのは僕自身の夜の話である。

 僕は大学一年生の冬から早朝アルバイトをしており、週に2回ほど朝3時半に起きて夜の街に繰り出している。そして大学三年生になった現在、そんな生活をもう2年ほど続けていることになる。

 夏の明け方にアルバイト先に向かっていると、朝3時半でも既に空が明るみはじめているので、安心感がある。夏至近くなると日の出を拝めることもあり、なんとも晴れやかしい気分になる。

 しかし寒さが体を突き刺す冬の時期になると、朝の3時半は暗闇に包まれる。そんな暗闇の中アルバイトに向かって繰り出していく行為、それは正に夜行である。不安がある一方で、人様が暖かいベッドで安らかな眠りについてる中、暗闇を行くことにはなんとも言えない喜びがある。また普段見ることない新聞配達や人気のない通り、無人の交差点を見ると、ささやかだが別の世界に踏み入れたような、言い知れぬ陶酔感すら感じる。

 僕の下宿先の近くに小学校があり、その奥には寺が建っている。そのため、下宿が面している通りに出ると、灯りの消えた校舎越しに墓を拝むことができる。

稲川淳二が喜ぶようなロケーションである。

 ある日、バイトに向かう途中、その通りを歩いているとフラフラと奇妙な歩き方をする者が目の前に現れた。そして僕の数メートル手前で突如立ち止まるとしゃがみこんだのである。僕はどうせ酔っ払いだろうなとは思いつつも、それまでその通りで人と出くわすことが滅多になかったため、不気味に思い、あまりそちらを見ないようにして足早に横を通り過ぎた。しかし通り過ぎる瞬間、その者が何かボソボソと呟いたのである。僕はほぼ反射的に駆け出して、その通りを抜けるまで止まる事なく全力で走り続けた。その者が何を呟いたのか全く認識できなかったが、本能がアラートを上げたのである。

 そして、通りを抜けここまでくればもう安心だろうと思い、振り返ると10メートル後方をその者が走って追いかけてきていたのである。

 このほかにも幾度か、夜を往くうちに稀有なものを目撃した覚えがある。夜とは我々の認知できぬ不可侵の領域を秘めた世界なのだ。

 

 

 

 

f:id:thenumber19:20161122173326j:plain