サボるな、Happy Happy Happy Catと戦え

本記事のサマリ:クリエイターは受け手のわかりやすさを追求し、作品を作ってはならない。Nirvanaは『Nevermind』をつくるべきではなかったのだ。彼ら自身ですら後悔したのだから。

 Happy Happy Happy Catと呼ばれる、陽気な音楽に合わせて、前足をバタバタさせて飛び跳ねる猫のインターネットミームが流行っていることを知った。この他にも前髪模様のある模様のぶちねこがはっ?と驚きを示す動画や茶色の猫が別の猫の頭を何度も殴打する動画など猫や犬時にはヤギのミームを目にする機会が増えた。

 これらのミームは擬人化され、単独ではなく組み合わせられることで、ストーリー仕立ての1つの動画として投稿されることが多い。投稿動画のストーリーは、例えば工場勤務の新入社員の1日の悲喜交々やマッチングアプリで出会った男とのデートが最悪だったなど多岐にわたる。このように様々なストーリーが展開されているが、決まったパターンで既知のミームが使われ、登場人物の気持ちを代行して語ってくれるため、視聴者は容易にストーリーを理解できる。

 例えば、デートに期待感抱いているシーンのように登場人物が文字通りhappyな状態にある場合はHappy Happy Happy Catが使われ、デート相手の男が割り勘を要求してきたシーンのように予期しない、もしくは呆れるような他者の言動を目の当たりにした場合は、先述のぶちねこが活用される。このようにストーリーを構成する各ミームが類似した場面で使われている、いわゆるテンプレート化されていることが、理解しやすさ・共感しやすさのポイントだと思う。パッと見のわかりやすさに惹かれ、僕も繰り返し動画を見ているうちに、Happy Happy Happy Catのテーマが頭から離れなくなってしまった。

 しかしミームで構成された動画を繰り返し見ているうちに、モヤモヤとした気持ちが生まれ始めてきた。例えば先述したマッチングアプリで出会った男性との初めてのデートに関する動画を見たときのことである。主人公がディナーの勘定で男に割り勘を求められるシーンがあり、そこでぶちねこ猫のミームが使われいた。このミームを使われることにより、猫によって擬人化された主人公の女性にとって、相手の男性の行動が自分の理想と乖離していたことを視聴者は容易に理解できる。しかし主人公の抱いた感情は、自分の理想とかけ離れていることに対する純粋な驚き・呆れだけだったというのかという点に疑問が残る。

 例えば、2024年現在において、女性の時間を使うことに対して金銭を渡す(金銭で価値を測る)ことが美徳であり、自分のためにお金を使ってくれることが自分の価値の証明であるという既存の考え方にクエスチョンや批判が投げかけられている。そんな現代においてデート相手の男性が割り勘を要求してきた場合、驚きや呆れを抱くにしても、葛藤や開き直りが入り混じった感情を抱く人がいてもおかしくないのではないだろうか。金銭を渡されることで自分の価値を測られることに対して違和感を感じつつも、損得感情が先立ち驚いてしまった人や、そもそも現代のジェンダー観の変遷に対して何らかの理由で真っ向から反対の姿勢を貫いている人がいてもおかしくない。

 しかしぶちねこというテンプレートに主人公の感情を無理矢理はめ込んだがために、男性が奢るべきというという過去の慣習に対するatitude、そのatitudeの基にあるジェーンダー観、そしてそのジェーンダー観が築かれたであろう環境情報が欠落してしまったのである。結果として視聴者は動画を通して、男が奢るべきだという考え方の是非という極めてシンプルな二項対立問題を突きつけられる。これにより時代背景やその考えに至るプロセスに触れることなく、必要以上に情報が削ぎ落とされた状態で是非が語られ、不毛な議論が続いていく。

 これは作り手の怠慢である。テンプレートに押し込んだ方が、視聴者にとってわかりやすく受け入れられやすいと鷹を括り、混乱させる情報を削ぎ落としている。これによりよほど勘の良い人でなければ削ぎ落とされた情報に思いを巡らすことができず、限られた範囲の中で議論が進んでいく。作り手は、酒を飲みすぎると酔っ払うといった非常にわかりやすい問題であっても、なんでその人は酒をたくさん飲みすぎたのかとか、そもそもその人は煙草もたくさん吸ってるんじゃないのかとか、大麻は規制されているけど、アルコールは規制する必要はないのかと話に広がりを持たせる姿勢が大事だと思う。

 ファストムービーの作り手に苦言を呈しても仕方ないと思うかもしれないが、SNSや動画投稿サービスが浸透した今、ほとんどの人類がなんらかのクリエーターである。だからこそ、理解しやすさ・共感のしやすさに囚われ、テンプレートに押し込むんじゃねえ、受け手を信じてお前のatitudeをお前の言葉でそのまま伝えろと声を荒げて言いたい。

 ここまで述べた上で、冒頭のサマリに戻りたい。冒頭のサマリではここまでの文章をのごく一部を切り出し、インパクトを持たせたガラクタである。結局サマリなんてものは、視聴者にすぐ理解してほしいという作り手とそれを甘んじて受け入れた読み手の怠慢の産物なのである。

 

 

 

原文ママ

 書籍や記事を読んでいると、(原文ママ)という表記を目にすることがある。特にインターネットの記事で著名人のインタビューの内容がそのまま引用されている場合が多い。

ママは、編集用語において「原文の儘 (まま) 引用」を略記する際に用いる記号。わかりやすく「原文ママ」の表記も見られる。趣旨としては、引用者が誤字またはそれに類すると感じたが、敢えて原文のママに引用する、というコメント。

ママ (引用) - Wikipedia

 高校生の頃、仲間内でとある若手バンドに関する記事が話題になった。その記事の内容は若手のバンドが、当時激しいサウンドで一部の人気を獲得していた別のバンドの演奏を批判したという内容だった。どちらのバンドもファンがいたので、喧々諤々議論が進む中、僕はぽろっと感想をこぼした。

「この原文ママってライター、色々な記事で見るんだけど、凄い活躍しているよね」

「え?」

 大方の予想通り、当時の僕は確かな取材力と卓越した文章力で日本のメディア界を折檻する、原文ママなるライターがこの世にいると思っていたのだ。彼女はライターとして活動する過程で、その類まれなる業績の数々から「新宿の母」のように厳かな通り名がつき、いつの間にかペンネームとして認知されるようになった。これが私の想像していた「原文ママ」の経歴である。

 この原文ママ事件は僕にとってちょっとした古傷で、シャワーを浴びている時にふと思い出して悶えてしまう。当時もひとしきり笑われた後、原文ママの正体を教えてもらった時、顔から火が噴き出た。

 言葉の意味をちゃんと理解していなかったり、知ったかぶりをして、恥をかいたことも少なくないが、原文ママ事件は印象深い。貴方にとってこんな古傷はありませんか。ふとした時に、原文ママが鎌を持って古傷を抉りにやってきませんか。